昨年、酒鬼薔薇事件に寄せられた中学生達の「気持ちが分かる」という膨大な数の共感ファックスを紹介したとき、私は
《透明な存在であるボクを造りだした義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐》
と述べる「声明文」に対する中学生の共感を、特に強調した。
だが、このとき、共感ファックスに少なからず別種のものが含まれていることを、私はあえて語らなかった。
それは、男子女子を問わずに寄せられた、
《誰もできないことをしたのがすごい》
《人を殺すなんて超クール、俺もやりたい》
という種類のメッセージだ。
酒鬼薔薇の声明文は、現存する社会や学校を否定しているという意味で「反社会的」だが、自分を《透明な存在》にしない社会や学校のあり方を指し示しているという意味では、むしろ「社会的」である。
「社会的/反社会的」という対立は、「広義の社会性」の内側にあると言える。
私は問題を教育改革に結びつけるべく、膨大な共感ファックスを、あえて「広義の社会性」の内側で解釈しようとしたということだ。
ところが少なからぬファックスは、動機の「理解可能性」にではなく、むしろ説明を寄せ付けない「理解不可能性」にこそ、共感を寄せていた。
確かに、酒鬼薔薇の振る舞いは、「もうひとつの学校」を構想する理解可能な「反社会性」とは全く別に、そうした動機説明に回収しきれない「脱社会性」とでも呼ぶべき次元をあわせもつ。
実は「教員に注意された」とか「拳銃が欲しくなった」といった動機は単なる引き金に過ぎない。
中学生(を含む若者)の一部は、人を刺したくてスタンバっている。何でもいいから人を刺す理由が与えられるのを待っている。
彼らは社会の「中」にはいない。社会と自分とは端的に無関係であり、そんな社会から不快なものがやってくると直ちに「社会対自分」という臨戦体勢に入る。こうした「脱社会的存在」が量産されつつある背景。
その背景を分析をすると、人はたいてい他人との社会的交流の中で肯定・承認されて、自尊心や尊厳を獲得する。
ところが共同体社会だった日本で、近ごろ家族共同体・学校共同体・地域共同体が空洞化し、自分を肯定してくれる「居場所」が失われてきた。
その結果、社会の中で一度も他人に承認された経験が無い不幸な少年たちが増えてくる。
彼らには、二つの選択肢があり、一つはまだ得たことのない承認を得ようと他人の期待に過剰適応するタイプ。
もうひとつは「だったら承認なんかイラネーよ」とばかりに他人との社会的交流から完全離脱するタイプ。彼らにとって、自尊心を維持するのに、他人や社会は、いらないどころか単なる「ノイズ」になる。
子どもが充分な承認を与えられない社会は「脱社会的」な人間を生む。
かつてのように共同体を頼れない以上、個人が個人として、他人を承認し承認される文化が要求されている。
宮台真司・・・東京都立大学助教授。
毎日新聞/1998年2月16日(月)/9面
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<20世紀末>の読み方
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